Waves PuigChild は、Ratio も、連続可変のアタック/リリースも、サイドチェーンフィルターも持たないコンプレッサーです。この記事では公式ユーザーマニュアルの記載だけを使い、Threshold が dB 表示ではない理由、Time Constant の6段が「速い順」に並んでいない事実、Input の初期値が -14 である意味、そして Lateral/Vertical モードで信号がどこを通るのかを分解します。
公式マニュアルは、この製品が Fairchild 670 のモデリングであることを明記しています。1章2節(Product Overview)の冒頭に「About the Fairchild 670」の項があり、続く3節「About the Modeling」で何をモデリングしたのかを列挙している構成です。したがって本記事は、モデリング元について公式が書いている範囲だけを扱います。
以下の範囲・初期値はすべて公式ユーザーマニュアル(英語版・全12ページ)の記載であり、編集部の実測値ではありません。コンポーネントは PuigChild 670 Stereo と PuigChild 660 Mono の2種類です。
カホつまみの目盛りに単位が無いコンプレッサーは、数字で設定できません。代わりにメーターを見て決めることになります。設計がそれを要求している、という前提から入ります。
この記事でわかること
- Threshold が 0〜10 という無単位のスケールになっている理由と、その扱い方
- Time Constant の6段が「1が速くて6が遅い」という並びではないこと
- Input の初期値 -14 が意味すること(上下で使える幅が違う)
- On/Off をオフにしても残るものと、Lateral/Vertical の信号経路
PuigChild 670とは|何を解決する製品か
公式マニュアルは製品概要を、実機 Fairchild 670 の説明から始めています。曰く、機材愛好家のあいだでステレオの Fairchild 670 は「すべてのコンプレッサーのなかで最も切望されている」存在で、それは音だけでなく希少性と価格のせいでもある。ヴィンテージ市場では数万ドルで取引されるが、当初の価格は1,000ドル未満だった——という書き出しです。
実機の設計者はエストニア生まれの Rein Narma で、1950年代初頭の設計。ステレオの670とモノラルの660はいずれも、極めて高い制御電圧を用いたシングル・プッシュプル増幅段を使います。マニュアルが「ユニークだ」としているのは、この2機種が増幅だけでなくゲインリダクションにも真空管を使う可変ミュー(variable-mu)リミッターであり、コンプレッションが別回路へ送られずオーディオ経路のなかで直接行われる点です。
Narma の会社 Gotham Audio Developments は660/670に先立って Rudy Van Gelder や Les Paul のためにコンソールや部品を作っており、Les Paul がリミッターの製作を依頼した直後に Sherman Fairchild がこの企画を聞きつけ、設計をライセンスして Narma をチーフエンジニアとして雇った——という経緯もマニュアルに書かれています。Narma はのちにサンフランシスコ・ベイエリアへ移り、Ampex の副社長になりました。
ここで数について一点ことわっておきます。マニュアルは冒頭で実機を「20本の真空管と11個のハンドワイヤード・トランスを6Uのシャーシに収め、重量は65ポンド」と説明していますが、モデリングの章では「オリジナルの Fairchild は4つのトランスを搭載している」と書いています。同じマニュアルのなかで11と4という異なる数が出てきます。どちらかに寄せると出典と食い違うので、本記事は両方の記載をそのまま示すにとどめます。
設計思想:なぜこの効き方をするのか
Threshold は dB ではなく、実機の目盛りの複製
Threshold の範囲は 0 から 10、解像度 0.1 ステップ、初期値は 0(=コンプレッションなし)です。dB ではありません。マニュアルはその理由を注記しています——「スケールはリニアではなく、モデリング対象ユニットの正確なスケーリングに一致するよう調整されています。したがってアナログ機材と同じく、特定のステップで期待以上のコンプレッションがかかることがあります」。
つまり「5.0 に合わせたから何 dB」という読み方が原理的にできません。数値で狙うのではなく、Input で信号を突っ込み、ゲインリダクションのメーターを見て量を決める。メーターの表示範囲はゲインリダクション 0〜20dB です。設定を記録したいなら「Threshold 4.2」ではなく「GR が何 dB 振れているか」を記録するほうが再現性があります。
Input の初期値 -14 は「入力=出力」の位置
Input の範囲は -20 から 0、1dB ステップ、初期値は -14 で、マニュアルはこの位置に「unity gain, input = output」と注記しています。ここから読み取れることが2つあります。
ひとつは、ユニティより上に14dB、下に6dB しか動かせないという非対称です。この製品は「突っ込んで使う」方向に幅が確保されていて、絞る方向はほとんど用意されていません。もうひとつは解像度の差です。Input は 1dB ステップ、Threshold は 0.1 ステップ、Output は 0.1dB ステップ。一番粗いのが、いちばん音への影響が大きいドライブ量のつまみという配分になっています。細かい追い込みは Threshold と Output で行う構造だと読めます。



初期値が中央でなく -14 にあるのは、そこがユニティだからです。まず -14 に戻してから上げ下げする。この基準を持たないと、音量差を圧縮の効果と取り違えます。
Time Constant は「速い順」に並んでいない
Time Constant は 1 から 6 の6段で、アタックとリリースが固定の組み合わせとして与えられます。マニュアルが列挙する値を並べると、この機能の正体が見えます。
| ポジション | Attack | Release |
|---|---|---|
| 1 | .2 ms | 0.3 秒 |
| 2 | .2 ms | 0.8 秒 |
| 3 | .4 ms | 2 秒 |
| 4 | .4 ms | 5 秒 |
| 5 | .4 ms | プログラム素材に応じて自動:単独ピークで2秒、複数ピークで10秒 |
| 6 | .2 ms | プログラム素材に応じて自動:単独ピークで0.8秒、複数ピークで10秒、高いプログラムレベルが続く場合は25秒 |
アタックに現れる値は .2ms と .4ms の2種類だけです。.2ms がポジション1・2・6、.4ms がポジション3・4・5。つまり最終段のポジション6は、アタックが最も速い側のグループに属します。「番号が大きいほど遅い」という読み方をすると、ここで外します。実際に変化しているのはリリースで、固定値なのがポジション1〜4の4段、プログラム素材に応じて自動で変わるのがポジション5と6の2段、という構成です。
さらに重要な但し書きがあります。マニュアルは、これらの値が「Fairchild が公表したオリジナルの値に基づく」としたうえで、「しかし弊社の測定は与えられた値とかなり異なった。したがってこれらの値は、10dB のコンプレッションを基準にした大まかな目安として使うことを推奨する」と書いています。表の秒数は仕様値ではなく目安であり、しかも基準が 10dB GR です。それより浅く/深くかけている場面では、体感がこの表からずれる前提で扱うべきです。



メーカー自身が「公表値と測ったら違った」と書いている箇所です。数値を鵜呑みにするなという指示が、マニュアルに明記されている珍しい例だと思います。
リリースがユニティに戻らない、という仕様
モデリングの章に、実務上いちばん引っかかりやすい記述があります。「Fairchild には数秒に及ぶ長い時定数を使う設定が含まれます。リリースが決してユニティに戻らないため、短いループ素材を繰り返し再生すると、再生のたびに違って聞こえることがあります。これはオリジナルのハードウェアの挙動と同一であり、心配する必要はありません」。
不具合ではなく仕様として明記されています。ただし比較作業への影響は残ります。2小節をループさせて A/B すると、周回ごとに前の周回の残りを引きずるため、設定の差なのか周回の差なのかが分離できません。長いリリース(ポジション3以降)を使うときは、ループではなく通しで再生して判断するのが噛み合います。
On/Off はコンプだけを外す
On/Off の説明は一行ですが、内容は重要です。「コンプレッションをオン/オフするが、アナログモデリングは残す」。初期値はオンです。加えて Threshold の初期値は 0(コンプレッションなし)。挿した直後の状態は、圧縮ゼロでアナログモデリングだけが通っている状態だということになります。
そのアナログモデリングとしてマニュアルが挙げているのは4項目です。全高調波歪み(THD)は奇数次・偶数次の倍音を加えて信号の形と内容を変え、全体のトーンバランスを変える。ピーク出力ゲインも変わるが、通常 ±0.2〜0.3dB を超えない。トランスは初期のものが平坦な周波数特性を持たず、低域と超高域のロールオフをもたらす。長いリリースタイム。そしてハムです。
ハムについては 50Hz と 60Hz の両方の電源電流がモデリングされており、注意深く聴けば両者でハムのレベルが違うことがわかる、とあります。そのうえでマニュアルは「ハムは地域ごとに固有で、その土地の電気的条件に依存するため、モデリングされたハムはあなたのスタジオに既に存在するハムとは異なる可能性があり、特定の用途には適さないかもしれない」と書いています。だから Mains には Off が用意されています。初期値は 60Hz なので、ノイズを足したくない場面では明示的に切る操作が要ります。
Lateral/Vertical:Input が行列の後ろにある
Link は左(上段)チャンネルと右(下段)チャンネルの関係を決めるスイッチで、状態は Left/Right・Linked・Lateral/Vertical の3つ、初期値は Linked です。
Left/Right では、コンプレッサーは完全に独立した2台として動作し、チャンネルごとにすべてのコントロールを個別に調整できます。マニュアルは「このモードはステレオ信号のステレオイメージを大きく変えうる」としています。Linked では上段チャンネルが両方を制御し、下段の設定はグレーアウトします。このときコンプレッション検出器は2チャンネルを合わせた最大レベルを算出し、その最大レベルに従って両チャンネルを圧縮する。だから「このモードは信号のステレオイメージをよりよく保つ」と書かれています。
Lateral/Vertical の説明はもう少し具体的です。ステレオ信号を和/差の行列に通し、和を上段(左)チャンネルへ、差を下段(右)チャンネルへ送る。ここで効いてくるのが順序で、マニュアルは「入力レベルは行列の後に設定されるので、和チャンネルと差チャンネルの関係をコントロールできる」と明記しています。つまりこのモードでの Input は、単なる入力ゲインではなく中央成分とサイド成分のバランスを決めるつまみになります。
出口側も同様です。コンプレッサー出力で信号は2つ目の行列を通って Left/Right のステレオへ戻されますが、括弧書きで「出力ゲインは2つ目の行列より前で作用する」と補足されています。Output も和/差の段階で効く、ということです。プラグイン画面のチャンネル名が「LEFT-LAT」「RIGHT-VERT」と両モード併記になっているのは、この配置を反映したものです。
全パラメーター
公式マニュアル巻末のコントロール一覧(Appendix A)に挙がっているのは、次の7項目です。Ratio、連続可変のアタック/リリース、サイドチェーン関連のコントロールは、この一覧に含まれていません。
| コントロール | 範囲 | 初期値 | 役割(マニュアル記載) |
|---|---|---|---|
| Input Gain | -20 〜 0(1dB ステップ) | -14 | コンプレッション経路へ入る信号の音量。-14 がユニティゲイン(入力=出力) |
| Threshold | 0 〜 10(0.1 ステップ) | 0 | コンプレッション量を設定。0 はコンプレッションなし。スケールはリニアではない |
| Time Constant | 1, 2, 3, 4, 5, 6 | 1 | 固定のアタック/リリース長を切り替える |
| On/Off | On / Off | On | コンプレッションをオン/オフする。アナログモデリングは残る |
| Mains | Off / 50Hz / 60Hz | 60Hz | 実機の電源に由来するノイズフロアとハムによるアナログ特性 |
| Link | Left/Right, Linked, Lat/Ver | Linked | 左(上段)と右(下段)チャンネルの関係 |
| Output | -18dB 〜 +18dB(0.1dB ステップ) | 0dB | 出力レベル。クイックスタートでは「出力(メイクアップ)ゲイン」と説明 |
メーターはコントロールではなく表示で、ゲインリダクションを 0〜20dB の範囲で示します。コンポーネントは2つあり、PuigChild 670 Stereo は「2組の独立した検出器とコンプレッション経路を持つ2チャンネル・コンプレッサー」、PuigChild 660 Mono は「670 の左チャンネルに基づく1チャンネル・コンプレッサー」とマニュアルは定義しています。
用途別・設定の始点
マニュアルのクイックスタートが示す手順は、Input で突っ込む量を決める → Threshold で圧縮量を決める → ゲインリダクションのメーターで量を確認する → Time Constant で固定のアタック/リリースを選ぶ → Output で出力(メイクアップ)ゲインを整える、という順序です。これを踏まえ、目的から選択肢を引く形にまとめます。数値目標は素材によって変わるため、ここでは「どのスイッチをどちらへ倒すか」とその根拠だけを示します。
| 目的 | 選ぶ設定 | マニュアル上の根拠 |
|---|---|---|
| 圧縮せず色付けだけ欲しい | Threshold 0 のまま(初期値)/On/Off は On | On/Off は「コンプレッションをオン/オフするがアナログモデリングは残す」。Threshold 0 はコンプレッションなし |
| 戻りを速くしたい | Time Constant 1(0.3秒)または 2(0.8秒) | 固定リリースが最も短い2段 |
| リリースを素材に任せたい | Time Constant 5 または 6 | この2段だけがプログラム素材に応じた自動リリース |
| ステレオ像を保ちたい | Link = Linked | 検出器が2チャンネル合成の最大レベルで動作。「ステレオイメージをよりよく保つ」 |
| ステレオ像を積極的に動かしたい | Link = Left/Right | 完全に独立した2台として動作し「ステレオイメージを大きく変えうる」 |
| 中央と両サイドを別々に扱いたい | Link = Lateral/Vertical | 和/差行列で分割され、Input が行列の後に作用する |
| ノイズを足したくない | Mains = Off | 初期値は 60Hz。モデリングされたハムは環境に合わない場合があるとマニュアルが明記 |
| 設定を比較したい | ループ再生を避け、通しで再生する | 長い時定数ではリリースがユニティに戻らず、繰り返し再生で違って聞こえる |
Time Constant の秒数を判断材料にする場合は、マニュアルの但し書き(10dB のコンプレッションを基準にした大まかな目安)を思い出してください。ごく浅くかけているときにポジション4の「5秒」をそのまま想定すると、体感と合いません。
似た製品との使い分け
使い分けの基準は明快で、設定を数値で指定したいかどうかです。PuigChild のコントロール一覧には Ratio が無く、アタックとリリースは6通りの組み合わせから選ぶだけ、Threshold は単位のない 0〜10。「4:1 で -12dB から」というような指定は、この製品では表現できません。狙った比率と時間を数字で決めたい作業には、それらを直接持つコンプレッサーのほうが噛み合います。当サイトでは api-2500 と V-Comp を個別に解説しています。
逆に PuigChild 側にしかない切り口が Lateral/Vertical です。和/差に分けたうえで、行列の後ろにある Input で中央とサイドのバランスを触れる。ステレオ幅そのものを扱う道具としては S1 Stereo Imager を別途解説していますが、こちらは「和と差を別々に圧縮する」ための構造なので、目的が違います。圧縮の基礎的な考え方そのものは コンプレッサーの基礎 にまとめています。
よくある質問
Threshold を何 dB に設定すればいいですか?
dB では設定できません。範囲は 0〜10 の無単位スケールで、マニュアルは「スケールはリニアではなく、モデリング対象ユニットの正確なスケーリングに一致するよう調整されている」と注記しています。同じ幅だけ回しても効き方が一定ではないため、数値ではなくゲインリダクションのメーター(0〜20dB 表示)を見て決める運用になります。
Time Constant 6 が一番遅い設定ですか?
アタックについては違います。マニュアルの値ではポジション6のアタックは .2ms で、これは1・2と同じ最速側の値です。.4ms なのはポジション3・4・5。リリースについては、ポジション6は最も長い設定(高いプログラムレベルが続く場合に25秒)を含みますが、これは固定値ではなく素材に応じた自動処理です。番号順に遅くなる並びではありません。
ループ再生すると毎回音が違うのは不具合ですか?
不具合ではありません。マニュアルは「リリースが決してユニティに戻らないため、短いループ素材を繰り返し再生すると再生のたびに違って聞こえることがある。これはオリジナルのハードウェアの挙動と同一であり、心配する必要はない」と明記しています。ただし比較には向かないので、判断は通し再生で行うほうが確実です。
670 と 660 の違いは何ですか?
コンポーネントの違いです。PuigChild 670 Stereo は2組の独立した検出器とコンプレッション経路を持つ2チャンネル・コンプレッサー、PuigChild 660 Mono は670の左チャンネルに基づく1チャンネル・コンプレッサーだとマニュアルは定義しています。Link や Lateral/Vertical はステレオ側の機能です。
まとめ
- Threshold は dB ではなく実機の目盛りの複製。数値ではなくゲインリダクション(0〜20dB 表示)で量を決める。
- Time Constant のアタックは .2ms と .4ms の2種類だけで、番号順に遅くなる並びではない。秒数は 10dB 圧縮を基準にした目安。
- Input の初期値 -14 がユニティ。上に14dB・下に6dBという非対称の幅と、Lateral/Vertical で行列の後ろに置かれる配置が、この製品の操作感を決めている。



単位が無い、値が目安、リリースが戻らない。曖昧に見えますが、どれもマニュアルに明記された仕様です。曖昧さの所在がわかっていれば、扱いは決められます。
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