この記事では、Waves InPhase が位相補正のためにどんな道具立てを選んだのかを、公式ユーザーガイドの記載から読み解きます。ディレイ(時間)・Phase Invert(極性)・オールパスフィルター(周波数依存の位相)という3種類のコントロールが分かれている理由、1次と2次のオールパスの定義、相関メーターの読み方、そして公式が示す補正手順の順番までを扱います。
InPhase はトラック間の位相問題を補正するプラグインです。ガイドは位相問題が起きる場面を3つ挙げています。録音時(ドラムの個別マイクとオーバーヘッド、ギターアンプとDI、複数マイク収録)、ミックス時(録音段階で対処されなかったズレ)、マスタリング時(完成した2ミックスの位相問題)。位相のズレは音量の低下を招き、周波数特性とステレオイメージを荒らす、と明記されています。
この製品の面白さは、耳ではなく目と数値で位相を扱う設計に徹していることです。波形をキャプチャして重ねて表示し、相関メーターで合い具合を数値化し、ズレの種類ごとに別のコントロールで直す。その分業の理屈を順に見ていきます。
カホ位相のズレは「なんとなく音が薄い」としか聞こえないのが厄介なところです。InPhase は、その「なんとなく」を波形と相関値に変換する道具です。
この記事でわかること
- Alpha/Beta の2セクション構成と、Process・サイドチェインのルーティング規則
- 1次オールパス=90°、2次オールパス=180°+Q という位相シフトフィルターの定義
- 「まず純粋なディレイ、それからフィルター」という公式推奨の補正手順
- 全コンポーネントのレイテンシー(20ms、Live 版は0)と、Capture・相関メーターの仕様
InPhaseとは|何を解決する製品か
ガイドの概念整理は明快です。位相の問題は、2つ以上の信号を足し合わせたときに初めて起こる。だから位相を語るときは常に「信号どうしの関係」を語っている——この前提が製品の構造にそのまま反映されています。InPhase には処理セクションが2つあり、ステレオ版では Alpha と Beta、モノラル版では Alpha と SC(サイドチェイン)と呼ばれます。1本の信号を絶対的に補正するのではなく、2本の関係を扱う造りです。
基本の使い方は3通り。①2本のモノラルトラック間の位相補正、②ステレオトラックの左右チャンネル間の補正、③サイドチェインに送った基準信号に対する整列です。ステレオ版で Process に CH1 を選ぶと CH2 が自動的に Beta へ回り(ステレオやアンプ+DIのようなデュアルモノ向け)、CH1/2 を選ぶとサイドチェイン入力が Beta へ回ります(基準トラックに合わせる用途向け)。モノラル版では常に、オーディオが Alpha、サイドチェインが Beta 扱いです。
コンポーネントは8種類。Mono/Stereo それぞれに通常版・LT 版・Live 版・Live LT 版があります。レイテンシーは全コンポーネント 20ms、ただし Live 系のみゼロ。LT は「クリエイティブな位相操作に手早くアクセスするための簡略版」と位置づけられています。
設計思想:なぜこの効き方をするのか
ズレの正体は1つではない:3種類のコントロールに分けた理由
InPhase の各セクションには、Delay(±20ms)、Phase Invert、位相シフトフィルター2基という3種類の補正手段が並んでいます。これは一般論として、位相のズレに物理的に異なる正体があることと対応します。マイク距離の差のような純粋な時間差、配線や表裏マイクで起こる波形の反転、そして処理や伝送で生じる周波数ごとに量の違う位相回転。この3つは別の現象で、どれか1つの道具では他を代用できません。
用語の整理をひとつ。Phase Invert についてガイドは「位相を180度反転する」と書いていますが、一般的な信号処理の言葉で言えばこれは極性反転(波形の符号をそのまま裏返す操作)です。全周波数に一律に効く点で、時間を動かすディレイとも、特定の周波数帯だけ回すオールパスフィルターとも違います。「逆相っぽいから反転ボタン」で解決しないケースがあるのは、ズレの正体が反転ではなく時間差や帯域限定の回転だからです。
そしてガイドは手順の順番を明確に推奨しています。位相シフトを加える前に、まず純粋なディレイを調整せよ。付録のワークフローも全て同じ組み立てで、ディレイで波形の頭を揃えたあと、「ディレイ調整の結果、特定の帯域でエネルギーが失われた場合」に初めてフィルターをオンにして、失われた帯域が戻る場所までスイープする、という流れです。時間差を先に消さないと、フィルターで何を直すべきかが見えない——順序自体が設計の一部です。



いきなりフィルターから触りたくなりますが、公式の手順は逆です。ディレイが先、フィルターは後。ここを守るだけで迷子になりにくくなります。
1次=90°、2次=180°+Q:オールパスの最小限の定義
位相シフトフィルターの実体はオールパスフィルター、つまり信号の振幅(周波数特性)には手を触れず、位相だけを変えるフィルターです。ガイドの定義では、1次オールパスは「位相シフトがちょうど90°になる周波数」で定義され、2次オールパスは「位相シフトが180°になる周波数」と「位相が変化する速さ=Q」で定義されます。InPhase の Type はこの2つに対応し、Shelf が1次、Bell が2次です(Off を含む3択)。
Q は Bell(2次)の幅を決めます。ガイドの説明では、Q を狭くするほど選んだ周波数に向かう位相の変化が急峻になり、それ以外の帯域がより無傷で残る。つまり「スネアの胴鳴りだけ戻したい」ような外科的な補正は狭い Q、広い帯域をゆるやかに回したいなら広い Q です。付録のスネア×オーバーヘッドの例でも、消えた胴を戻す手段として「Bell を狭い Q で」と指定されています。位相シフトカーブは専用ウィンドウにリアルタイム表示されるので、どの帯域をどれだけ回しているかは常に目で確認できます。
耳より先に目と数値:Capture と相関メーター
補正対象を見るために、InPhase は信号を短くキャプチャして2段の波形ディスプレイに重ねます。Capture は Automatic と Manual の2モードで、録れる長さは 44.1/48kHz で最大2秒、88.2/96kHz で最大1秒。Automatic は −40dBFS を超えるピークを待ち構え、超えた瞬間から自動で録って止まります。ズームは X 軸をサンプル解像度まで拡大でき、マーカーで基準点(トランジェントの頭やゼロクロス)を打って合わせ込む。波形表示は処理を反映してリアルタイムに更新されます(ゲイン変更は反映されません)。
合い具合の判定は相関メーターです。値は 1 から −1 の間を動き、1 が最大相関(同一信号)、0 が無相関、−1 が完全な逆相。ピークはマーカーで保持され、青が正側のピーク、オレンジが負側のピークです。ガイドは実用的な判定基準も書いています。負の相関が正の相関を上回るなら、どちらかのセクションの Phase Invert を試せ、と。



相関メーターの読みは単純です。青が伸びる方向へ動かす。オレンジが青より大きいなら、まず反転。数値で判断できるうちは耳を疑わなくて済みます。
モニターの −6dB 補正と、20ms のレイテンシー
Monitor セクションでは Stereo Mix/Mono Mix/Alpha 単独/Beta(SC)単独を切り替えて聴けます。ここに細かい配慮があり、Mono Mix ではモノラル合算による音量増を打ち消すため、モニター出力が 6dB 下げられます(ステレオミックスでも CH1/2 対 SC の構成では同様に −6dB)。合算した瞬間に音が大きくなって「良くなった」と錯覚する、という位相調整で最も起こりやすい判断ミスを、モニター段で潰す設計です。
レイテンシーは Live 系を除く全コンポーネントで 20ms です。Delay はどちらの方向にも最大 20ms 動かせますが、レイテンシーゼロの Live 版では前方向(遅らせる側)のみになります。両方向の Delay と 20ms のレイテンシー、前方向のみの Delay とゼロレイテンシーがそれぞれ組になっている、というのが仕様の対応関係です。スタジオでは通常版、遅延が許されない現場では Live 版、という分担になります。
全パラメーター
公式ユーザーガイドの Controls の節(3.2)に記載された内容です。数値の範囲が明示されているものは範囲を、説明のみのものはその旨を記しています。
| 区分 | コントロール | 範囲・選択肢 | 何を決めるか |
|---|---|---|---|
| セクション | Process(Alpha/Beta) | ステレオ版:CH1 または CH1/2 | CH1選択でCH2がBetaへ、CH1/2選択でサイドチェインがBetaへ。モノラル版は音声=Alpha・SC=Beta固定 |
| セクション | Activity LED | —(表示) | 入力信号の有無 |
| セクション | Gain | 範囲の明記なし | 処理セクションへ入る信号レベル |
| セクション | Phase Invert | On / Off | ガイドの表現では「位相を180度反転」。一般用語では極性反転 |
| フィルター(各2基) | Type | Off / Shelf(1次オールパス)/ Bell(2次オールパス) | 位相シフトフィルターの種類 |
| フィルター | Frequency | 数値範囲の明記なし(表示スケールは32〜16kHz) | Shelfでは位相シフトが90°、Bellでは180°になる周波数 |
| フィルター | Q | 数値範囲の明記なし | Bellの幅。狭いほど選択周波数へ向かう位相変化が急で、他帯域が無傷で残る |
| セクション | Delay | ±20ms(Live系は前方向のみ) | 信号の時間移動。位相シフトより先に調整することを公式推奨 |
| モニター | Monitor | Stereo Mix / Mono Mix / Alpha / Beta(SC) | Mono Mix と「CH1/2対SC」の Stereo Mix は合算分を−6dB補正 |
| モニター | Output LED | —(表示) | 出力ピークレベル |
| 表示 | Collapse | — | 波形表示部を閉じる |
| キャプチャ | Capture | Automatic / Manual(44.1・48kHzで最大2秒、88.2・96kHzで最大1秒) | 波形の取り込み。Automaticは−40dBFS超のピークで自動開始 |
| 解析 | Correlation Meter/Markers/Value | −1 〜 1 | 1=同一、0=無相関、−1=完全逆相。青=正側ピーク、オレンジ=負側ピーク |
| 表示 | Zoom X/Zoom Y(α・β)/Zoom Y Link/Reset Zoom | X軸はサンプル解像度まで | 波形の拡大。Linkで上下のY軸ズームを連動 |
| 表示 | Marker | — | ズームの中心点。波形のピーク合わせの基準にも使う(Alt/Optionで移動を補助) |
| ユーティリティ | Copy Alpha Beta/Paste Alpha/Paste Beta | — | 設定をInPhaseクリップボード経由で同一・別インスタンスへ複製。モノラル版へのPasteはAlphaに入る |
用途別・設定の始点
ガイド付録の4つのワークフローの要点です。いずれも共通の骨格は「キャプチャ → マーカーで基準点 → ディレイで整列 → 相関確認 → 必要ならフィルター1 → フィルター2 → 都度A/B」です。
| 場面 | 構成 | ガイドが示す要点 |
|---|---|---|
| ベースアンプ+DI(モノ2本) | アンプ側に InPhase Mono、DI をバス経由でサイドチェインへ | Mono Mix で合算を聴きながら、DI のゼロクロスへ Alpha のディレイで整列 |
| モノ2本をステレオAuxにまとめて補正 | Aux に InPhase Stereo、2トラックを Bus 1/2 へ | 補正後、Copy Alpha, Beta → アンプトラックの InPhase Mono へ Paste Alpha で設定を移植 |
| ステレオトラックの左右 | InPhase Stereo、Process=CH1 | 例では Alpha が早いため、Beta 側の Delay で Alpha のゼロクロスへ整列。2本目のフィルターは例では120Hz付近を調整 |
| オーバーヘッドをスネアトップに整列 | AudioSuite(オフライン)の InPhase Stereo、Process=CH1/2、スネアをサイドチェインへ | スネアの胴が消えたら Bell+狭いQでスイープして戻す。中高域は2本目のフィルターで |



Mono Mix が自動で 6dB 下がる仕様は見落とされがちです。合算で音が大きくなった=改善、という錯覚を最初から断ってある。地味ですが誠実な設計だと思います。
似た製品との使い分け
InPhase LT と Live 版:同シリーズ内の分担
LT はガイドいわく「クリエイティブな位相操作へ手早くアクセスするための簡略版」。厳密な補正作業はフル版、音作りとして位相をいじる入口は LT という分担です(LT で何が省かれているかの一覧はガイドにはありません)。Live 版はレイテンシーゼロで、Delay が前方向のみ。ライブや配信のように遅延が許されない現場はこちらです。
EQ で直せるズレと、InPhase でしか直せないズレ
EQ は振幅(周波数特性)を動かす道具で、2本の信号の到達時間や位相関係そのものは扱えません。逆に InPhase のオールパスフィルターは、定義上、振幅に触れず位相だけを回します。「2本重ねると特定の帯域が痩せるが、単独で聴くと両方まともに聞こえる」という症状は、振幅ではなく位相の問題であり、InPhase の領分です。単独で聴いても帯域バランスがおかしいなら、それは EQ の仕事です。
よくある質問
位相反転ボタンと InPhase は何が違う?
DAW やコンソールの反転ボタン(ø)は極性反転で、InPhase の Phase Invert と同じ働きの全帯域一律の裏返しです。InPhase が加えるのは、そこにディレイ(±20ms の時間整列)と、帯域を選んで位相だけを回すオールパスフィルター、そして結果を数値化する相関メーターです。反転ボタンで直る問題は反転ボタンで直ります。直らない残りを扱うための製品です。
相関メーターはどこまで上げるべき?
ガイドが示す判定は「値が高いほど相関が良い」「負のピーク(オレンジ)が正のピーク(青)を超えるならどちらかを反転」という2点です。1.0 は同一信号を意味するので、別々のマイクで録った信号が 1.0 になることは考えにくい。目標値の具体的な数字は、本稿が参照した版のガイドには出てきません。青側で最大化しつつ、最後は A/B の聴感で確定させる手順が付録の一貫した流れです。
Logic でサイドチェインがうまく機能しない
ガイドに専用の注記があります。Logic でサイドチェインを使う場合は、対象のオーディオトラックをバスへ送り、そのバスをサイドチェインソースに指定してください。
ライブで使うと音が遅れる
通常コンポーネントのレイテンシーは 20ms あります。遅延が問題になる現場では Live コンポーネント(Live Mono/Live Stereo/Live LT)を使ってください。レイテンシーはゼロになり、代わりに Delay は前方向のみになります。
まとめ
- InPhase は位相を「2信号の関係」として扱う。Alpha/Beta の2セクション、キャプチャ波形、相関メーター(1〜−1)がその実装。
- 補正手段は時間(Delay ±20ms)・極性(Phase Invert)・周波数依存の位相(1次=90°/2次=180°+Qのオールパス)の3層。手順はディレイが先、フィルターが後。
- レイテンシーは 20ms、Live 版はゼロ(Delay 前方向のみ)。Mono Mix の −6dB 補正が「音量差による錯覚」を防ぐ。



直す順番さえ守れば、位相補正は怖くありません。時間、極性、それから帯域。メーターの青が伸びたら、最後は耳で決めてください。
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